昭和45年03月07日 朝の御理解



  御理解 第61節
 「神より金光大神に、何時までも尽きぬおかげを話にしておくのぞ。信心しておかげを受けたら、神心と成りて人に丁寧に話をして行くのが、真の道を踏んで行くのぞ。金光大神が教えた事を違わぬ様に人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。是れが神に成るのぞ。神に成りても、神より上に成るとは思うな。」

 この六十一節は大変に難しい。難しくて分からない御教えですねえ、中々「人に丁寧に話をして行くのが、真の道を踏んで行くのぞ」と。こう言う所も真の道を踏んで行くと、本当だろうかという気がしますですねえ。人に自分がおかげを受けた事を話をして行くと言う事が、それが真の道を踏んで行くと言う事は、本当だろうかと言う様な気が致します。まあだ真の道というのは他に有る様な気が致します。
 「金光大神が教えた事を、違わぬ様に人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。」とまあ此の辺は解りますねえ。しかし「是れが神に成るのぞ。」と言う所に至って参りますと、愈々解りませんですねえ。「信心させるのが神へのお礼ぞ。」と其処までは此処は解ると致しましても「是れが、神に成るのぞ。」と。又「神に成りても、神より上に成るとは思うな。」と言う様な所も非常に難しいですねえ。どの様なふうに頂いたら良いのだろうかと思いますねえ。
 けれども矢張り其処の所をまあ、神様が金光様に、こういうふうに教えて居られるのだから、と例えば素直にまあ単純な気持ちで頂きますと、解らん事も無い感じがします。私は自分が本当におかげを受けて、その受けた話を丁寧に人に伝えて行くのが有難いと。その事が愈々有り難いと解らせて頂く様に成ったら、私は真の道を踏んで行くと言う事に成るのだというふうに思います。
 伝えただけではない、自分がおかげを受けた事を、それを話をする事がまた、其処に人が助かって行く事が、言うなら有り難いと解らせて頂いて、其れが続けられて行くとするなら、成る程「神になる」と云う事も「真の道を踏んで行くのぞ」と云う事も、解る様な気が致します。金光様の多くのご信者の中には、此処の所を、本当に仕事の様にして、お導きなら、お導きと云う事を、なさる方が有るのですよねえ。
 もうその人達はですね。それが有り難いんですねえ矢張り。いわゆる貴方のおかげで助かったと貴方のおかげで導かれたと。そう喜ばれる事がまた自分のその喜びなんですねえ。その信心の喜びですからその辺の所から少し、少しまた深まって来るんですよねえ。貴方のおかげで助かったと、貴方のお導きに依ってと、言う様な事に段々成って参りますとね。人間ですから矢張り私があの人を導いたんだと。
 私があの人を助けたんだと言う様な事に成って来る事がですね。私は私が今申します、解らないという所のね、「神より上に成るとは思うな」と言う所がです。もう既に神より上に成ってる様な気が致しますですね。この辺のだから兼ね合いという物がです、ねえ。本当に確かに天地の親神様が、金光大神にお伝えに成られた事は解ります。だからその話を聞いて言わば、信心の眼が開けて参りまして、おかげを受けて有り難くなる。その有り難さが人にも伝えると言う事になる。
 自分の体験自分のおかげを受けた事。それを人に聞いてもろうて、人が其処に助かって行く道が付いて来る。その事が有難うなる。その事が楽しゅうなる。成る程そういう道は確かに真の道だろうと思いますね。所が人間の何処かの隙からですね。そうして真の道に出らせて頂きながら、真の道をま踏んで行って居る積りで、人へだんだんお伝えをさせて頂ける様に成りお導きが出来る様に成る。そこに神になる道をまぁ一心に辿って居る訳なのであります。
 所がその辺からです少し狂うて来る。確かに有り難いまた助かって行くと楽しい。所が助かった人達が又は導かれた人達が「あなたの、おかげで。」と言う様に成る。又は言わんでも私が導いたんだと、言う様な事に成って来る。ね。いわゆる「私が。」と言う「我」が出て来る。いうならば其処へ、先輩風を吹かせる様に成るとでも申しましょうかね。その辺からですね。
 私は段々神より上に成って行く様な、気が致します。自分は上に成ろう等とは、思うてないけれども、何とはなしに神より上に成ると言う様な事は、そう言う事では無かろうかとこう思います。実際は神様が導かせて下さった。神様が助けて下さった。その御用に使こうて頂いたと。その心が段々薄らいで如何にも、私が助けた様に成って来る。是れはね。まあいっちょそういうおかげの受けられる所迄、信心を本当に進めて行かにゃいけません。金光大神がね。教えられた事をです。
 たがわぬ様に自分自身も頂いて、おかげを頂いてそしてそれが、人に伝えなければ居れない程しの信心。自分の周囲に沢山の人が導かれて行くと言う様な信心。そう言う所をです。私は「真の道を踏んで行く」と言う事であり、又はそれが「神に成るのぞ」と、教えられるそういう楽しみ、そういう喜びをですね、持って行かねばなりません。ですから、私が以前に申しました事の中に、「少し位その慢心が出る位なおかげを頂かにゃ。」とこう申しました。
 ある意味では所謂それを素晴らしき慢心とこう申します。出来もしませんのに慢心するのは是は鼻持ちなりませんけれどもね。「あれがあげん言うけれどもねえ。やっぱりおかげを受けとるけん仕様が無か。」と言う様な人が有るでしょうが。そらもうやっぱそんな人がありますね。此の頃信心のどっかの研修会の時に、秋永先生と有る他所のその総代さんとの話が、今度三月かですか筑水信徒会の役員のいわば改選があるんだそうです。それで今度の筑水連合信徒会のま会長を平田さんがなさって居られます。
 それで(会長の役を)外の人へ持って行こうと言う様な話が有ったんだそうです。それで、 秋永先生が「現在のね。筑水連合会に会長に出来る、この人ならと言う、なら平田さん以上の人がありますか。」と「もう言うなら現在の筑水で徒会はね、まあ言うなら平田さんでもっとると言うたっちゃ過言じゃ無いですよ。とあの人なればこそ是だけの言うならリ─ドが出来て居るけれど、それはそんな考え方はいけませんよ。」と言うて話したと言う事を聞きましたんですけれども。
 その秋永先生に言われたという人はです。それを言って居る訳です。どうも慢心しとると言った様な気分が有る。ね。もう其れこそ先生でも何でもその、先生と思っていない。とにかく成る程ああいう熱気がそのうお話の中に出て参りますと、本当に矢張り奢られとる様な感じがします。「ああそげなこつじゃつまらん。」と。私も実は驚いたんですけれども、うちにみえた時に応接間に朝の話が終わって、お茶を一服あそこで差し上げた時に、私と秋永先生とお相手しよりました。
 そしたら丁度此処の部長さん達の、いわゆる菊栄会の方達が五、六人でちょっとご挨拶にみえられたんです。入られた途端です。「あんた達は雁首いっちょすげ替えにゃ。」と、言わっしゃった。入ってまだもの言わん先です。ははあこげん所がまあ、そういう非難が有る所じゃ無いじゃろうかとこう思いましたね。「ああた達はいっちょ雁首をすげ替えにゃ。」と。本当にもう頂きようじゃ、ムカッとする様な感じが致しますよね。そういう様な事が、やっぱり他でも有るんですよね。
 それは矢張り非常に平田さんファンが多いかと思うと、その反対に又そう言う様なものがやっぱり有る訳です。今度は平田を会長にしちゃいかんといった雰囲気も有る訳なんです。それでも幾ら悪う言ったっちゃ、あの人がそのおかげ頂いとるもんね。と言う話が横から出てくる訳です。どげん言うてもやっぱしあれだけの信心ができて、あれだけのおかげを受けてあ有るだから、まあしかたがないと言った様な事に成って来る訳です。その事を平田さんと云う訳ではないですけれども。
 だからあの位なおかげを頂いてみたいという訳です。私はね自分が本当におかげを受けてみたい。又受けなければならん。皆さんどうでしょう。ですけれどもその辺の所からですね。その辺の所から段々矢張り、間違うて来るんじゃないでしょうかねえ。いわゆる「神よりも上に成るとは思うな」と。私はああ言う様な烈しい御信心であり、又は教えられるでも烈しい態度で言われますけれども、平田さんの間違いが無いなあと思う事はですね。もう親先生一辺倒で在る事ですね。
 口を開けば親先生。もう自分に中にですそれこそ、「のりくら」じゃないけれども、もう自分の中に、甘木の安武初代の親先生が、もう宿って御座るという確信を持って居られる様な感じですねえ。ですから平田繁吉じゃない甘木の初代がこう言われて居ると言った様なものを感じます。親先生の事を話して居られると、もう感激されます。感動されるですね。親先生の御修行中の時分の話でもなさる時は、もう本当に感動される。ああそういう意味でですねえ、まあ言うなら間違い気は無いと思うけれども。
 まあ隅々に出て来る態度とか言われる事が、矢張り烈しい為にそう言う事に成るのですけれども、矢張り平田さんとしても、しかしまあそこの時期の所をです。矢張り神より上に成る様な、例えば思いと言った様なものを何時も心に掛けて居られる事で有ろうが、まあお互いもです。まああそこ迄位は一つおかげを頂いて、ね。信心が愈々大きく育ち愈々豊かな心に成り。もう是れはね(心が)もう豊かに大きゅう成らねば、もう絶対おかげが大きゅう成らんです。
 ですからねまぁ私共は、其処ん所を何時も稽古をして居る訳ですから、豊かに大きゅうなって、まあおかげを頂いた暁きの。だから現在私共の場合は、どう言う所を通って居るかというと所謂神に成る喜びというかね。いうならば人に丁寧におかげを受けた事を話して行くというか、まあいっちょその前のそんなら自分自身が本当に、おかげを受けなければならん為の信心修行が、今なされて居る時なのです。ですから其処ん所をですね。おかげを受けて行った所からですね。
 段々「神に成りても神より上に成るとは思うな」と。もう実を言うたら今日さっき一番初めに解らん事ばっかり、実を言うたら此処の此の六十一節は。どんなに考えても神より上に成ろうとは誰ぁれも思うとらん。又は人に丁寧に伝えて行く事が神になるのだとか。または真の道を踏んで行くのぞとか言う事やらは、実際解らんですねえ。本当にそれが真の道だろうかと、思う様で有りますけれども、だから其処の所を素直に受けてです。おかげを受けた事をそれを矢張り実意丁寧をもって人に伝えて行く。
 その実意なものが人に通うて行く。其処に一人助かって行くおかげであなたのおかげで、と言う様な人達が周囲に出来て来る。その所からですねえ、私は体験の上からははあ是れが矢張り真の道じゃなあと。成る程こういう積み上げをして行くなら、神に成って行くと言う事はそう言う事だなと。これは体験する事であってですね。ただ聞いただけでは、非常に難しい解らない御理解だと思います。ね。
 大体人が助かると言う様な事やら、本当に神に成ると行ったような事はね。例えばその言行録を読ませて頂くとね。こう言う様な事にならなければ、実をいうたら神に成る道とか、真の道とかと言う事には成って来ないのじゃないかと思うのです。少し読んでみましょうかね。あるご信者に教祖様が仰っておられる事なんですよねえ。『「百姓を止めて、神様に身を任せてしもうて、人を助けてはどうなら。」
 と言われるも「父は、百姓が本大切と思います。」と、申ししに「おまえは百姓を主な者が止めては、食えんと思うが食えれば食う、食えねば食わぬぞという気で、勤めたらどうなら。」と言われたるも強いて辞退したる。』と言うふうに書いてあります。あちら言葉で。「なら」というのは、そうあちら言葉でしたね。教祖様の仰ったと折の事を書いてある。あるお百姓さんに「神様に身任せて、お取次ぎの御用でもさせてもろうたらどうか。」とこう言われる。
 所がその自分が中心であるから、とこう返事して居られると、教祖様がそれに言うて居られます。「食えるなら食う、食えんなら食えんという気になって勤めたらどうなら。」とこう言うて居られます。私は本当の意味においてですねえ。この六十一節を真の道をふむとかね。又は神に成るのかとか言う事はですねえ。今まで申しました事は、私共でも分かりやすく、素直に聞けばそうと申しましたですねえ。
 ぎりぎりの所でですねえ、本当に真の道を踏むか神に成るとか言う事は、此処の所の欲を放さなければ出来る事じゃ無かろうと思うですね。其処までおかげを受けてです。其処までおかげを受けて「食えるなら食う、食えんなら食わん」と言う様な心。いわゆる神に身まかせとこう言うて居られる。百姓しておりゃあ最後に辞退した後に言うて居れます。そんなら、一生百姓するが良かたいと、言う意味の事を言うて居られます。まあがっかりして居られる様な感じです。
 教祖さまがおかげを受けて居る。だから百姓を止めてひとつ人を助けてはどうかと。人を助けると言う事はです。私自身が神様に身任せるという程しのです、ね、ものがなからな出来ません。自分自身が神様に、任せもきらずにですね、実をいうたら本当に人が助かると言う事は言えません。神に身任せるそして食えるなら食う、食えんなら食わぬという気になって、人を助けたらどうかと。成る程是れなら人も助かるだろう。是れなら神に成って行けると私は思いますね。本当はその様に私は難しゅう頂いたら、是れは間違いなしにそうだろうと私しも思います。
 いわゆる「神へのお礼ぞ」と仰る。成る程是れなら神様に本当の意味において、いわゆる神恩報謝の真がです。身をもって捧げられる事に成ると私は思います。けれども合楽の方達はこの辺の所が、ある意味で解るんだと思いますね。何時も頂いて居りますから。神様まかせは親先生まかせと。親先生に身まかせ、ね。其処から生まれて来るおかげ。そのおかげの中にもう一つ、人が助かって行くおかげを受けれれる。
 信心を頂きたいと思うですね。是れならね、神へのお礼にもなる。成る程真の道が、其処にはっきりして来る。自分の我情我欲と云う物を捨てますから、神様に身まかせと言う事は、我情我欲を捨てた姿なんですから、成る程是れならはっきりと真の道が解る。成る程人が助かって行く、成る程神様へのお礼が出来る。それが神になるのぞと言う事も、こうなって参りますと解かって参りますね。
 それで、それでも人間という者は、矢張りその様にして、神に成って行く道を辿どらせて頂いても、本当に神様に身まかせ真の道を踏んで、人助けの事の為に精進させて頂いて居っても、さあ先生親先生大先生と言われる様に成って参ります所のにきから、矢張り神より上に成ると思うなと戒められて居る。是れはだから成ってみなければ、実際は解らんのです。此の辺が又難しい事で有ろうと思います。ね。
 そこに私は平身低頭例えば神に成ると言うそういう例えば神に身まかせ、いわゆる我情我欲を捨てて食えるなら食う、食えぬなら食わぬと言う様な、潔い信心度胸をもって其処に当たって行く所に、人は助かるだろう、神様へのお礼も出来る事だろうと。が段々おかげを頂いて、あちらは徳者だと言われる様に成り、それこそ神様の様に扱われる様に成る所のにきからです。又間違って来る様なですね。
 もう大変な徳を受けられましてね。もう飛ぶ鳥落とす様な大徳を受けられた先生がです。もうそれこそ高い所から転落した様に、おかげを落とされたという例はいくらも有るです。いわゆる神より上に成られたからなんですよね。だから私どもは其処ん所をまだ行ってないから、大丈夫なんだけれど、しかし目指す所は私共はやっぱり其処なんですから、そう云う時に、おかげを落とす様な事が有っちゃならん。
 其処でですね。其処で私は思うんです。御神訓に「まめなとも信心の油断をすな。」「信心は本心の玉を研くものぞや。」と言う様なこういう御教えがです。まめなとも信心の油断をすなと、同時に信心は本心の玉を研くものぞやというです。此処の所の一点に絞られて来るのじゃないかと思います。全ての事がです。それによって研きそれによって改まって行くと言う事。此処ん所の一字を忘れる所にです。
 神より上に成る様な結果が生まれて来るんじゃないだろうかと、こう思うんです。それによって研くそれによって改まって行く。例えばですならいかに生神様の様に成らせて頂いてもそこにお気付と言った様なものを、お気付とも気付かん様になる。そしてそのお気付というお気付の事によってです。あらぁ是れはまだ自分の研きようが足りんのだと思い、また自分の改まりが足りんのだとその事から。
 改まって行く研いて行くという、姿勢を中心に持って居ったらです、神より上に成るとは思うなと言う事は、無かろうかというふうに思うので御座います。六十一節をただこう簡単に読みますと、何でもない様ですけれども少し心してみると、こんなに難しか事はなか、という感じのする、是れは御理解ですよねえ。真の道真の道と言われるが、そんなら人が導かれて行く、そういう生き方をして居る者は、みんな真の道を踏んで行くのじゃろうか、本当じゃろうかという気がする。
 それが神様にお礼ぞ位は解るけれども、それが神に成って行くなんて事は、愈々解らない神に成りても神より上に成ろうとは思うななんて愈々。少し此処の所を見つめてみますとですね。難しい事に成りますけれどもそれを平易にですか、素直に此処の所を頂くと、私が前半に申しました様な事になり。けれども是れは確かにそうだと、本当だと実感出来る様な頂き方はいわゆる教祖の言行録から頂きましたですねえ。
 神様に身任せいわゆる食えるなら食う、食えぬなら食わんと言う様なあり方で、人を助けて行こうという姿勢是れなら確かに、成る程神様に成れるだろう。成る程それなら真の道がはっきりして来るだろう。我情我欲の無い眼こを持って見るのですから、真の道がはっきりして来るだろう。それでも人間は弱い。神様の様に言われる様に成って来ると、ね。いわゆる「私が」というのがやっぱり出て来てです。
 神より上に成って言わば高い所から落ちるのですからよけい痛い。高度な信心に成って神徳神格を受けて、高い所から落ちるのですからそれは尚ひどい事になる。そう言う事に成らん事の為に、神より上に成る様な事があっちゃならんと言う事は、本心の玉を研くものぞやと。それに依って研きそれに依って改まると言う様なものが、その信心の中心に成っておるなら、私はおかげが頂けて行くと言うふうに思うのです。六十一節を言うなら見易すう、又は難しゅう今日は申しましたですね。
   どうぞ。